チルドサイトの大改造にともない、こちらやんぐの衛生日記も引っ越し大移動いたします。
大移動を考えてはいるものの、かなり面倒なのでとりあえずこの続きからやんぐの衛生日記へと引き継がれます。チルドサイトのバンマスブログコーナーとなります。
いずれ過去アーカイブもろとも引っ越しすることになると思いますが当面ここは温存、新しいエントリーからの変更です。
どなたさまも移動よろしくお願いいたします。
Twitter Updates
2011年08月30日
2011年08月15日
終戦記念の戦闘状態
本日は終戦の記念日でありますが、現在は新たな戦争状態に突入中、人殺しの核拡散戦争の真っ只中です。自分が生き抜くために他人の子を殺す、一地域の壊滅を誤魔化すために他地域の人間も殺す、責任回避のために同胞を殺す、己の私利私欲のために猛毒をまき散らす、そういう考えの変態殺人鬼連中と真っ当人間の寡黙な戦闘中です。
そういう自覚なしに暢気に構えている馬鹿や殺人鬼の洗脳に首まで浸かっている間抜けは放射能食ってくたばっておればいいし、同胞や家族の命を守りたい人間はそれなりの行動を起こすことが求められます。
戦闘中ではありますがこの戦争の勝敗はすでについています。滅びの道を着々と歩んでいることは間違いないので、この戦闘は死に行く人間のせめてもの最後っ屁にすぎませんのです。だってすでに手遅れだから。
「すでに手遅れ」はこの10年20年だけでも何度も訪れており、すでに「すでだらけ」でどうしようもありません。この大惨事の中、暴動も起きず騒ぎもパニックも起きず、半径数百キロの汚染地域にまだ人が住んでいてぐだぐだやっているという、つまり生活の変化より死を望むというような連中が大多数というこの変態性現実をまざまざと見せつけられて手遅れと思わず何と思う。
このキモさは並みじゃない。これはさすがに予想の範囲を超えた。
ま、とりあえず核拡散を食い止めよう。せめて他地域の死者を減らしましょう。
そういう自覚なしに暢気に構えている馬鹿や殺人鬼の洗脳に首まで浸かっている間抜けは放射能食ってくたばっておればいいし、同胞や家族の命を守りたい人間はそれなりの行動を起こすことが求められます。
戦闘中ではありますがこの戦争の勝敗はすでについています。滅びの道を着々と歩んでいることは間違いないので、この戦闘は死に行く人間のせめてもの最後っ屁にすぎませんのです。だってすでに手遅れだから。
「すでに手遅れ」はこの10年20年だけでも何度も訪れており、すでに「すでだらけ」でどうしようもありません。この大惨事の中、暴動も起きず騒ぎもパニックも起きず、半径数百キロの汚染地域にまだ人が住んでいてぐだぐだやっているという、つまり生活の変化より死を望むというような連中が大多数というこの変態性現実をまざまざと見せつけられて手遅れと思わず何と思う。
このキモさは並みじゃない。これはさすがに予想の範囲を超えた。
ま、とりあえず核拡散を食い止めよう。せめて他地域の死者を減らしましょう。
今週ライブやん
冗談で「チルドは1年に1回くらいしか出演しないの」なんて言っていたら本当に1年に1回になりました。おまけに「そろそろ1年だから」とちゃんと1年経ったら誘ってくれるVAMPIRE!のWADAさん。気にとめてくださってありがとうございます。
というわけでVAMPIRE!主催のUrBANGUILD、コンベックス・レベルとともにチルドレンクーデターお世話になります。
よろしくどうぞ。

2011.08.20 UrBANGUILD ライブ告知
ところで、チルドのサイトを大改装中。ここ1年ほどmovei booの運営で覚えたwordpressに全面移行です。大手術です。問題も多発。頭から湯気。現在移行途中。
ここ「やんぐの衛生日記」は、その昔ASAHIネットのウェブでスタートし、何度もサーバーを替え、ブログサービスを替えながら「さくらのブログ」に落ち着いていますが、せっかくチルドサイトをwordpressに移行したのでどうせなら一気に引っ越そうかなあ等と画策中。
というのも「さくらのブログ」に限らず、こういったブログサービスって気軽に更新しようという気が失せる。現にさくらに移行して以来更新をぜんぜんしないブログになってしまった。
でも今から引っ越すと連番的にもポスト管理的にもややこしいことになるので、どうしたもんかなと。
チルドサイトの一角、カスタム投稿タイプにでも読み込めればいいんだけどそのやり方がわからないし。
どうしよっかな。誰かカスタムポストタイプにインポートする方法教えて。
というわけでVAMPIRE!主催のUrBANGUILD、コンベックス・レベルとともにチルドレンクーデターお世話になります。
よろしくどうぞ。
2011.08.20 UrBANGUILD ライブ告知
ところで、チルドのサイトを大改装中。ここ1年ほどmovei booの運営で覚えたwordpressに全面移行です。大手術です。問題も多発。頭から湯気。現在移行途中。
ここ「やんぐの衛生日記」は、その昔ASAHIネットのウェブでスタートし、何度もサーバーを替え、ブログサービスを替えながら「さくらのブログ」に落ち着いていますが、せっかくチルドサイトをwordpressに移行したのでどうせなら一気に引っ越そうかなあ等と画策中。
というのも「さくらのブログ」に限らず、こういったブログサービスって気軽に更新しようという気が失せる。現にさくらに移行して以来更新をぜんぜんしないブログになってしまった。
でも今から引っ越すと連番的にもポスト管理的にもややこしいことになるので、どうしたもんかなと。
チルドサイトの一角、カスタム投稿タイプにでも読み込めればいいんだけどそのやり方がわからないし。
どうしよっかな。誰かカスタムポストタイプにインポートする方法教えて。
2011年05月02日
阿呆阿呆作戦、ざまあみろ症候群とカッコ悪症候群
きみたちは阿呆だ。
だからすぐに仕掛けられた阿呆阿呆作戦の罠に落ちる。罠に落ちないためにはその罠がいかなる罠かを知っていなければならない。
そこで、今回は今まで散々書いてきたことではあるが、阿呆阿呆作戦が内包する現代の二つの特徴について簡単におさらいしておきたい。
阿呆阿呆作戦とは庶民の頭の悪さを利用した統治の術、洗脳作戦のうちの最も効果が期待できる「奴隷同士の争い」を演出する作戦である。
権力者ならお馴染み、不満の矛先を本質から逸らし庶民同士の諍いレベルに落とし込んで自滅させるという定番作戦だ。
怒りの方向を誘導し相互監視をさせることによって思想的にも統治を図ったこの作戦の最も有名な例は江戸時代の五人組や戦時の隣組であろう。これらはすぐに徒党を組み村八分とか言って異端を排除する陰湿な国民性と相まって効果絶大であった。
村人が竹槍で「鬼畜米英」とか言って玉砕という集団自殺を目指している最中、戦争反対とか日本は負けるとかおれは兵隊になりたくないとか放射能は危険だとか神風は吹かないとか子供に20ミリシーベルトなんかどんでもないなどと言おうものなら「非国民」「危険を煽るな」と糞田舎の呑百姓や頭が腐ったネット番長どもから総攻撃を受けて幸せなファシズム社会で生きていけなくなるのである。
さてそれが所謂阿呆阿呆作戦であるが、五人組や隣組から時を経て今なお健在な作戦であり、作戦の方向性も広がりを見せている。神経症的現代人にぴったりフィットする「ざまあみろ」と「カッコ悪」というトレンドがそれだ。
ざまあみろ症候群
大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない巨悪がわからない。巨悪がたとえあっても目に映らない。いや、例え目に映っても脳がそれを認識できない。つまり想像を超えた怪奇現象なわけだ。もちろん怪奇現象を信じるということもないから、つまり巨悪は存在しないということになる。しかし巨悪はあるから、当然ストレスを感じている。そのストレスは攻撃先を見つけたくてうずうずしていて、そこで身の丈の小さな悪に対して怒りをぶつけることになる。
例えば3号機の爆発という大きな出来事から阿呆どもの目を反らすため、あるいは電力を人質に取ったプロパガンダのために「脅し停電」という停電があった。脅し停電じゃなくて何だったかな、何とか停電。何でもいいが。そうすると原発災害という巨悪からあっというまに停電という出来事に興味が逃げる。停電では抽象的だから次に節電という言葉に踊らされる。そこまで行けばあとちょっとだ。次は電気の無駄遣いという悪の存在を見つけようとする。悪者狩りが始まるのだ。そして民衆統治の術を心得ているある卑怯者が一言「パチンコと自販機は無駄遣いだ」と助言を与えると、愚衆はあっというまに飛びつく。「パチンコを潰せ」「自販機を潰せ」
やっと貧弱な想像力でカバー可能な悪を発見して大喜びだ。これぞ身の丈の喜び。
根底にあるのが「ざまあみろ症候群」である。誰しも気にくわないものはある。嫌いなものや鬱陶しいものがある。もちろん日常的な身の丈の近く、遠くの敵でない近くのちょっとした敵だ。嫌いなものに対してファシズムの許しが得られれば誰はばかることなく攻撃することが出来る。田舎の村八分と同じ原理である。煙草に対する気違いじみた差別と同じ原理である。
嫌いなもの、悪い物に対する集団ヒステリー的攻撃に快感を覚えるこの変態思考を「ざまあみろ症候群」と呼ぶ。
自分が嫌っている物を大っぴらに差別することが許されるこの快感は格別だ。
煙草が嫌いだったあなた、パチンコや自販機が嫌いだったあなたは普段の理知的思考回路を遮断してついうっかりファシズムの罠に落ちて攻撃の尻馬に乗らなかったか今一度我を顧みて頂きたい。
「ざまあみろ症候群」の質の悪さは誰しもついうっかり罠に嵌ってしまいがちなところにある。例えば自分が攻撃を受ける立場にあってさえ、簡単に他者攻撃を行ってしまう危険性があるのだ。
煙草差別を受けているにも関わらずパチンコ攻撃に荷担してしまうのだ。それが「ざまあみろ」の基本だからだ。被差別者が他の差別対象を見つけて喜んでいる状態と同じなのである。自覚しにくく、快感に我を忘れるのだ。
「煙草迫害なんか当然だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「飲酒運転の罰金増やせ。ざまあみろ。もっとやれ」
「消費税値上げで自営業者は死ね。ざまあみろ。もっとやれ」
「原発誘致した村は自業自得だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「民主党に投票するからだ。ざまあみろ。もっとやれ」
「ギャンブルなど害悪だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「公務員の給料下げろ。ざまあみろ。もっとやれ」
「迷惑な自転車取り締まり強化。ざまあみろ。もっとやれ」
まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず誰かが誰かを攻撃したときに「ざまあみろ」とつい思ってしまう瞬間を自分で自覚することだ。そして、ざまあみろと思った対象がどれほどの大きさを持つ悪なのかを今一度問い直し、その対象を憎悪することによって憎悪から逃れる大きな存在が他にないか広く世界を眺め回すことだ。
任侠物の主人公のように「大物は雑魚を相手にしない」という基本を忘れず、憎悪は憎悪しか呼ばないというむかしの人の偉い言葉を思い返し、自分の憎悪が社会悪に利用されていないかどうか疑う癖をつけるのだ。
カッコ悪症候群
大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない思想がわからない。
誰もが身近な世界に生きている。物の考え方や流行は自身を取り巻く小さな世界で起きているのであるが、阿呆故それがわからない。日本中がそうだと思ってしまうのである。
例えばテレビばかり見ている人はテレビの中の世界が世の中のすべてだと思ってしまうし、ネットだったらTwitterやなんかで読んでる世界、友人関係ならその身内が話題にする思想や世界観の影響下に住んでいてそれがすべてだと思ってしまう。
ほんのちょっと天の邪鬼な人間がいて、「みんな」という言葉を嫌う傾向がある。特に若者に顕著な「みんなと同じじゃ厭」っていうアレである。ネットでは「中二病」という言葉があるらしく、なかなか言い得て妙だと思う。「カッコ悪症候群」は中二病の一部に含まれる概念かもしれない。
物事には多様性や深みやいろんなものがあって、なかなか一筋縄ではいかないものだ。深くはまり込みすぎて判断不能になってしまうのも困りものではあるが、何も考察せず本質と全く無関係な尺度で判断するのは論外だ。
「カッコ悪症候群」とは、本質外の尺度で迂闊な決定を下してしまいその時点で思考を閉ざす行為に嵌る症候群である。
簡単な例えでは、みんながガラケーを使っているときに「みんながガラケーでカッコ悪いからそれ以外を」という理由だけでiPhoneを選ぶようなことを指す。ここで重要なのは、iPhoneを選ぶ理由がiPhoneそのものになく、みんな対自分の個人的尺度、さらに言えば身の丈的尺度だけを動機にしている点だ。この例えはここに留まらず続きがある。次に「みんながiPhoneでカッコ悪いから」と、iPhoneのそっくりさんに飛びつく行為まで含む。ここで重要なのは「みんながiPhone」という事実認識、つまり「みんな」尺度の狭さ、次に「iPhoneではないiPhone如き物」に対する無警戒な信頼の危険性である。
もうちょっと違う例えだとこうなる。「みんなが原発は危険だなんて言うから、じゃあおれは危険じゃないほうに付いちゃおう」「みんなが福島から疎開したほうがいいなんて言うから、じゃあおれは福島に留まってがんばっちゃうほうを応援しよう」
「みんな」の認識が稚拙なほど狭いことにまず気づくだろうか。そして肝心な原発や放射能についての考察を一気に放棄して「自分にとっての流行」という狭い世界、頓珍漢な尺度で自らの思考を決定していることに気づくだろうか。
原発について自分の考えを突き詰めるのなら、なによりもまず原発について考えるのが正統である。それを放棄して「他者がどう言っているか」「その他者が自分を含めた狭い世界でどういう存在か」という無意味な尺度で思考を停止させるこの「カッコ悪症候群」に嵌った頭の悪さは格別である。
天の邪鬼なことは否定しない。むしろ天の邪鬼であることは思考の基本である。カッコ悪症候群の問題点は、天の邪鬼な部分ではなく、尺度が頓珍漢な上に決定がこれまた頓珍漢であるという一点に集約される。さらにいえば、実はカッコ悪症候群に嵌る人間が考える天の邪鬼感は、実はちっとも天の邪鬼ではなく、寧ろ大衆迎合であり集団心理でありやはりファシズムに片足突っ込んでる状態なのである。
カッコ悪症候群の患者が考える「みんなと同じじゃ厭」の「みんな」部分、大抵これが全然みんなではなく寧ろ少数派である場合が少なくない。それを「みんな」と思い込んで逆の思考に陥るとき、その結果こそが圧倒的「みんな」の世界なのである。ここ難しいからよく考えて。患者が「カッコ悪い」と思う対象は実はよくよくみてみると反大衆的である場合がほとんどなのだ。
カッコ悪症候群の患者は実のところ全体主義者であり、全体主義に反する物事を見つけると「それが流行っている。嘆かわしい」と感じるのである。そして、その流行っている物事の正反対を主張しはじめ、権威の片棒を担ぐ仕事に勤しむわけなのである。その仕事こそが尊敬する権威からの指令であり洗脳の結果だと気づかずにだ。
「みんなが放射能が危険と煽っている。カッコ悪いから自分は安全を強調してやろう」
「みんながチェルノブイリの悲惨さを語っている。カッコ悪いからチェルノブイリは大したことないと言ってやろう」
「みんながミニシアターでヨーロッパ映画を見ている。カッコ悪いから自分は大ヒット作だけ見ることにする」
「みんなが煙草をカッコいいと思ってる。カッコ悪いから煙草嫌いに徹しよう」
「みんなが小出助教の話を聞いている。カッコ悪いからあいつは信用しないでおこう」
「みんなが原発を止めろと言っている。カッコ悪いから止めなくて良いという立場に立ってやれ」
「みんなが震災について真面目に語っている。カッコ悪いから震災の話はしないでおこう」
まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず身の丈の小さな世界から脱出し、出来る限り大きな世界を認識することだ。思考の対象はその対象そのものであるという自覚を持ち、無関係な尺度を当てはめようとした時に間違いに気づくことである。
だからすぐに仕掛けられた阿呆阿呆作戦の罠に落ちる。罠に落ちないためにはその罠がいかなる罠かを知っていなければならない。
そこで、今回は今まで散々書いてきたことではあるが、阿呆阿呆作戦が内包する現代の二つの特徴について簡単におさらいしておきたい。
阿呆阿呆作戦とは庶民の頭の悪さを利用した統治の術、洗脳作戦のうちの最も効果が期待できる「奴隷同士の争い」を演出する作戦である。
権力者ならお馴染み、不満の矛先を本質から逸らし庶民同士の諍いレベルに落とし込んで自滅させるという定番作戦だ。
怒りの方向を誘導し相互監視をさせることによって思想的にも統治を図ったこの作戦の最も有名な例は江戸時代の五人組や戦時の隣組であろう。これらはすぐに徒党を組み村八分とか言って異端を排除する陰湿な国民性と相まって効果絶大であった。
村人が竹槍で「鬼畜米英」とか言って玉砕という集団自殺を目指している最中、戦争反対とか日本は負けるとかおれは兵隊になりたくないとか放射能は危険だとか神風は吹かないとか子供に20ミリシーベルトなんかどんでもないなどと言おうものなら「非国民」「危険を煽るな」と糞田舎の呑百姓や頭が腐ったネット番長どもから総攻撃を受けて幸せなファシズム社会で生きていけなくなるのである。
さてそれが所謂阿呆阿呆作戦であるが、五人組や隣組から時を経て今なお健在な作戦であり、作戦の方向性も広がりを見せている。神経症的現代人にぴったりフィットする「ざまあみろ」と「カッコ悪」というトレンドがそれだ。
ざまあみろ症候群
大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない巨悪がわからない。巨悪がたとえあっても目に映らない。いや、例え目に映っても脳がそれを認識できない。つまり想像を超えた怪奇現象なわけだ。もちろん怪奇現象を信じるということもないから、つまり巨悪は存在しないということになる。しかし巨悪はあるから、当然ストレスを感じている。そのストレスは攻撃先を見つけたくてうずうずしていて、そこで身の丈の小さな悪に対して怒りをぶつけることになる。
例えば3号機の爆発という大きな出来事から阿呆どもの目を反らすため、あるいは電力を人質に取ったプロパガンダのために「脅し停電」という停電があった。脅し停電じゃなくて何だったかな、何とか停電。何でもいいが。そうすると原発災害という巨悪からあっというまに停電という出来事に興味が逃げる。停電では抽象的だから次に節電という言葉に踊らされる。そこまで行けばあとちょっとだ。次は電気の無駄遣いという悪の存在を見つけようとする。悪者狩りが始まるのだ。そして民衆統治の術を心得ているある卑怯者が一言「パチンコと自販機は無駄遣いだ」と助言を与えると、愚衆はあっというまに飛びつく。「パチンコを潰せ」「自販機を潰せ」
やっと貧弱な想像力でカバー可能な悪を発見して大喜びだ。これぞ身の丈の喜び。
根底にあるのが「ざまあみろ症候群」である。誰しも気にくわないものはある。嫌いなものや鬱陶しいものがある。もちろん日常的な身の丈の近く、遠くの敵でない近くのちょっとした敵だ。嫌いなものに対してファシズムの許しが得られれば誰はばかることなく攻撃することが出来る。田舎の村八分と同じ原理である。煙草に対する気違いじみた差別と同じ原理である。
嫌いなもの、悪い物に対する集団ヒステリー的攻撃に快感を覚えるこの変態思考を「ざまあみろ症候群」と呼ぶ。
自分が嫌っている物を大っぴらに差別することが許されるこの快感は格別だ。
煙草が嫌いだったあなた、パチンコや自販機が嫌いだったあなたは普段の理知的思考回路を遮断してついうっかりファシズムの罠に落ちて攻撃の尻馬に乗らなかったか今一度我を顧みて頂きたい。
「ざまあみろ症候群」の質の悪さは誰しもついうっかり罠に嵌ってしまいがちなところにある。例えば自分が攻撃を受ける立場にあってさえ、簡単に他者攻撃を行ってしまう危険性があるのだ。
煙草差別を受けているにも関わらずパチンコ攻撃に荷担してしまうのだ。それが「ざまあみろ」の基本だからだ。被差別者が他の差別対象を見つけて喜んでいる状態と同じなのである。自覚しにくく、快感に我を忘れるのだ。
「煙草迫害なんか当然だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「飲酒運転の罰金増やせ。ざまあみろ。もっとやれ」
「消費税値上げで自営業者は死ね。ざまあみろ。もっとやれ」
「原発誘致した村は自業自得だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「民主党に投票するからだ。ざまあみろ。もっとやれ」
「ギャンブルなど害悪だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「公務員の給料下げろ。ざまあみろ。もっとやれ」
「迷惑な自転車取り締まり強化。ざまあみろ。もっとやれ」
まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず誰かが誰かを攻撃したときに「ざまあみろ」とつい思ってしまう瞬間を自分で自覚することだ。そして、ざまあみろと思った対象がどれほどの大きさを持つ悪なのかを今一度問い直し、その対象を憎悪することによって憎悪から逃れる大きな存在が他にないか広く世界を眺め回すことだ。
任侠物の主人公のように「大物は雑魚を相手にしない」という基本を忘れず、憎悪は憎悪しか呼ばないというむかしの人の偉い言葉を思い返し、自分の憎悪が社会悪に利用されていないかどうか疑う癖をつけるのだ。
カッコ悪症候群
大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない思想がわからない。
誰もが身近な世界に生きている。物の考え方や流行は自身を取り巻く小さな世界で起きているのであるが、阿呆故それがわからない。日本中がそうだと思ってしまうのである。
例えばテレビばかり見ている人はテレビの中の世界が世の中のすべてだと思ってしまうし、ネットだったらTwitterやなんかで読んでる世界、友人関係ならその身内が話題にする思想や世界観の影響下に住んでいてそれがすべてだと思ってしまう。
ほんのちょっと天の邪鬼な人間がいて、「みんな」という言葉を嫌う傾向がある。特に若者に顕著な「みんなと同じじゃ厭」っていうアレである。ネットでは「中二病」という言葉があるらしく、なかなか言い得て妙だと思う。「カッコ悪症候群」は中二病の一部に含まれる概念かもしれない。
物事には多様性や深みやいろんなものがあって、なかなか一筋縄ではいかないものだ。深くはまり込みすぎて判断不能になってしまうのも困りものではあるが、何も考察せず本質と全く無関係な尺度で判断するのは論外だ。
「カッコ悪症候群」とは、本質外の尺度で迂闊な決定を下してしまいその時点で思考を閉ざす行為に嵌る症候群である。
簡単な例えでは、みんながガラケーを使っているときに「みんながガラケーでカッコ悪いからそれ以外を」という理由だけでiPhoneを選ぶようなことを指す。ここで重要なのは、iPhoneを選ぶ理由がiPhoneそのものになく、みんな対自分の個人的尺度、さらに言えば身の丈的尺度だけを動機にしている点だ。この例えはここに留まらず続きがある。次に「みんながiPhoneでカッコ悪いから」と、iPhoneのそっくりさんに飛びつく行為まで含む。ここで重要なのは「みんながiPhone」という事実認識、つまり「みんな」尺度の狭さ、次に「iPhoneではないiPhone如き物」に対する無警戒な信頼の危険性である。
もうちょっと違う例えだとこうなる。「みんなが原発は危険だなんて言うから、じゃあおれは危険じゃないほうに付いちゃおう」「みんなが福島から疎開したほうがいいなんて言うから、じゃあおれは福島に留まってがんばっちゃうほうを応援しよう」
「みんな」の認識が稚拙なほど狭いことにまず気づくだろうか。そして肝心な原発や放射能についての考察を一気に放棄して「自分にとっての流行」という狭い世界、頓珍漢な尺度で自らの思考を決定していることに気づくだろうか。
原発について自分の考えを突き詰めるのなら、なによりもまず原発について考えるのが正統である。それを放棄して「他者がどう言っているか」「その他者が自分を含めた狭い世界でどういう存在か」という無意味な尺度で思考を停止させるこの「カッコ悪症候群」に嵌った頭の悪さは格別である。
天の邪鬼なことは否定しない。むしろ天の邪鬼であることは思考の基本である。カッコ悪症候群の問題点は、天の邪鬼な部分ではなく、尺度が頓珍漢な上に決定がこれまた頓珍漢であるという一点に集約される。さらにいえば、実はカッコ悪症候群に嵌る人間が考える天の邪鬼感は、実はちっとも天の邪鬼ではなく、寧ろ大衆迎合であり集団心理でありやはりファシズムに片足突っ込んでる状態なのである。
カッコ悪症候群の患者が考える「みんなと同じじゃ厭」の「みんな」部分、大抵これが全然みんなではなく寧ろ少数派である場合が少なくない。それを「みんな」と思い込んで逆の思考に陥るとき、その結果こそが圧倒的「みんな」の世界なのである。ここ難しいからよく考えて。患者が「カッコ悪い」と思う対象は実はよくよくみてみると反大衆的である場合がほとんどなのだ。
カッコ悪症候群の患者は実のところ全体主義者であり、全体主義に反する物事を見つけると「それが流行っている。嘆かわしい」と感じるのである。そして、その流行っている物事の正反対を主張しはじめ、権威の片棒を担ぐ仕事に勤しむわけなのである。その仕事こそが尊敬する権威からの指令であり洗脳の結果だと気づかずにだ。
「みんなが放射能が危険と煽っている。カッコ悪いから自分は安全を強調してやろう」
「みんながチェルノブイリの悲惨さを語っている。カッコ悪いからチェルノブイリは大したことないと言ってやろう」
「みんながミニシアターでヨーロッパ映画を見ている。カッコ悪いから自分は大ヒット作だけ見ることにする」
「みんなが煙草をカッコいいと思ってる。カッコ悪いから煙草嫌いに徹しよう」
「みんなが小出助教の話を聞いている。カッコ悪いからあいつは信用しないでおこう」
「みんなが原発を止めろと言っている。カッコ悪いから止めなくて良いという立場に立ってやれ」
「みんなが震災について真面目に語っている。カッコ悪いから震災の話はしないでおこう」
まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず身の丈の小さな世界から脱出し、出来る限り大きな世界を認識することだ。思考の対象はその対象そのものであるという自覚を持ち、無関係な尺度を当てはめようとした時に間違いに気づくことである。
2011年04月13日
あした輝く
むかしむかしのチルドの曲に「あした輝く」ってのがあって、タイトルはもちろん少女漫画から頂戴したものだけど内容は漫画とは関係なく反核ソングとなっておりまして、この女性ボーカル用の曲はアリスセイラーをゲストに迎えて唄ってもらったりしたこともあるんですね。懐かしい話です。
つい最近、アリスセイラーというかアマリリスというかぴいち姫というかEP-4というか、その東京でのライブで使う動画の制作を頼まれて、それを作っているときに昔のアリスや当時の反核精神も思い出したりして、副次的に「あした輝く」のセルフリメイクがひょいと出来てしまいました。
-->Youtube あした輝く
唄の部分は「阿呆の暮らし」と同様にMacのテキスト読み上げを利用してコツコツ作ったわけですが、これも昔、Macで初の音声読み上げが登場したときの遊びと同様、変なローマ字による出鱈目筆記にて無理矢理発音させます。今時はボーカロイドなる面白そうなものがふつうにありますがMac用がないので相変わらず十数年昔のままの技法を用います。
具体的には、こんな感じなのですね。
a she tar are
caga a a ya a ku woo
hito o no o o
na sar a kay no o
kiwa met two woo kay
hana mo hajilau
o toma go color.
you ku mo ka L mo
towkai so dachi
kabo-cha but a a K no
kodomo he to lee.
bookey wo Cum a tei.
dock oh "A" you ku No.
この馬鹿なローマ字を音声にて読み上げてもらい、それを保存して音源ソフトで言葉を分割したり引き延ばしたりピッチを調整したりするわけです。間抜けな技法です。
「阿呆の暮らし」のときは、この調子で原作「阿呆の暮らし」を全て変なローマ字にしました。こっちの労力は並みではなかったんですが馬鹿馬鹿しさのあまりフルで使用したことはありません。効果的に使いようもないのですが。
ま、そんなわけで「あした輝く」埋め込んどくか。
つい最近、アリスセイラーというかアマリリスというかぴいち姫というかEP-4というか、その東京でのライブで使う動画の制作を頼まれて、それを作っているときに昔のアリスや当時の反核精神も思い出したりして、副次的に「あした輝く」のセルフリメイクがひょいと出来てしまいました。
-->Youtube あした輝く
唄の部分は「阿呆の暮らし」と同様にMacのテキスト読み上げを利用してコツコツ作ったわけですが、これも昔、Macで初の音声読み上げが登場したときの遊びと同様、変なローマ字による出鱈目筆記にて無理矢理発音させます。今時はボーカロイドなる面白そうなものがふつうにありますがMac用がないので相変わらず十数年昔のままの技法を用います。
具体的には、こんな感じなのですね。
a she tar are
caga a a ya a ku woo
hito o no o o
na sar a kay no o
kiwa met two woo kay
hana mo hajilau
o toma go color.
you ku mo ka L mo
towkai so dachi
kabo-cha but a a K no
kodomo he to lee.
bookey wo Cum a tei.
dock oh "A" you ku No.
この馬鹿なローマ字を音声にて読み上げてもらい、それを保存して音源ソフトで言葉を分割したり引き延ばしたりピッチを調整したりするわけです。間抜けな技法です。
「阿呆の暮らし」のときは、この調子で原作「阿呆の暮らし」を全て変なローマ字にしました。こっちの労力は並みではなかったんですが馬鹿馬鹿しさのあまりフルで使用したことはありません。効果的に使いようもないのですが。
ま、そんなわけで「あした輝く」埋め込んどくか。
2011年04月12日
反核対推進の闘いの戦術
余震と呼ばれる大地震がまだまだ頻発しており、これは群発状態の真っ只中にいると解釈したほうが良さそうな長期に渡る災害だ。
このような群発地震は過去に似たような記録があり、富士山の噴火と繋がっているというシナリオも十分予測できる。東海地震も射程に入った。
2度の原発爆発から1ヶ月、電力会社、政府、メディアの悪の枢軸トリオは安全デマの拡散とデータ隠蔽に明け暮れ、ここに来てようやくレベル7を認定し、場合によってはチェルノブイリを越える被害が出ることを公にした。今ごろ何言ってんだ。
呆れかえるその態度はまさに犯罪者、国際的な核テロリストと言っていい悪辣ぶりだ。あまりの悪者っぷりにめまいがする。
日本のシステムが旧ソ連と同様であることは石井鉱基の告発以降知れ渡ることになり、今回も自他共に認めるソ連以下レベルの対応をしてきたのであるが、海洋汚染からこっち、事態はもはやソ連レベルではなく常軌を逸した独裁国家並みの下劣さである。その非道っぷりに吐き気が止まらない。
さて反原発、反核の動きだが、都道府県の知事たちが国と電力会社に安全を求めるとか、市民がデモを行うとか、そういう普通のレベルに未だ留まっているのも驚愕と言える。
安全デマをまき散らす支配者層や一部の馬鹿が「パニックを防ごう」なんて言っていたが、今パニックじゃなければどういうときにパニックを起こすのだという話だ。この非常事態におとなしくお上の言うことを聞く飼い犬のような態度は一見冷静に見えるかもしれないが実はただの腑抜けである。
あるいは心理的パニックに陥っているがために安全神話にすがろうとする宗教にハマった浅ましい下人の姿なのかもしれない。
ま、そんなことはともかく、反原発の動きが未だ小さいまま広がりにかけるのが何故かということを分析したい。
反核の主張は実は30年前から何も変わっていない。30年前から事実が何一つ変わっていないためであり、主張や思想が一環しているためでもある。そして熱心に勉強した知識と正しいデータに基づく正論を展開し、ほとんどにおいて反論を封じ込めることが出来る説得力を持っている。話を広げすぎたり過度のナチュラル思想にハマるなどといった弱点もあるのだがここでは反核部分に限った部分だけに的を絞り枝葉は除外する。
つまり反核の主張は正統なのである。
これに対し推進の主張はやや異なる。彼らの思想的背景は判らないが、基本的に無知な人間を騙くらかすことが主な目的となる。そのため理屈は屁理屈にしかならず、議論しても浮ついた詭弁しか出てこないし、やることなすことすっとこどっこいで想像力の欠片もない。
両者の闘いは30年前から同じ事の繰り返しでだらだらと続いている。で、結果的には勝者は推進であり、反核は完敗しているのだ。
何故か。
正論対正論を封じるという構図が全てを物語っている。反核の主張は、その主張が正しいが故に簡単に粉砕されるのである。
細かなデータを元に正統な理屈を苦労して並べ立てたあげく、冷笑と共に大嘘と全否定という二つの極端な強弁の罠に引っ掛かり砕け散るということだ。
正しいことは大きな嘘と全否定には到底かなわないのである。例えば戦時中、詳細なデータを元に日本が敗戦するという声は粉砕され「神風が吹くから」という大嘘の前に完敗した。あるいはもっと身近だと例えば国会中継で共産党議員の質問を見れば誰でもわかるだろう。スパイすれすれの人脈を駆使して集めた詳細データを元に国会で鋭く質問する共産党議員、だがそれに対する答弁はのらりくらりと無関係な話で逃げ切る。しつこく迫るとニタニタ笑って他所を向き「ま、共産党が言ってることだから」と小馬鹿にして終わる。個々の質問にまともに向き合えば必ず論破されるので、大きく冷笑して全否定するという戦略を取るのであるがこれがもう効果絶大。
例えば頭の切れる人に1時間くらい何か賢いことを喋ってもらい、その後でアホのふりをしながら「でもお前の母ちゃんでべそだよな」で全て終わるのと同じ理屈だ。
反核の連中は30年間変わらぬ真面目な態度のまま突き進み主張に変化はなく、まんまとこの戦略に嵌ってしまって常に完敗するというそういうことの繰り返しをこの非常事態にまだやっているということだ。
いやこれは反核の連中を貶してるんではなくて、そういう攻撃にさらされていることを自覚したほうがいいという話だ。
推進の攻撃は反核に対しては冷笑と全否定、知識のないニュートラル層に対しては大嘘と宗教で責める。
大嘘と宗教については連日の安全デマとそれを鵜呑みにする信者たちを観察していれば誰にもわかるので詳細は割愛するが、反核も負けじとニュートラル層の取り込みに躍起になる。
ここでも注意が必要だ。正しいデータと正論はもちろん大事だが、それだけではニュートラル層は動かない。そもそもニュートラル層は基本阿呆なのであまり理詰めで迫ると「何この人キモい」と思われてお仕舞いである。この辺はかつての小泉クレジット選挙の時のことを思い出さねばなるまい。反核の正論より推進の大嘘のほうが耳障りが良くて単純明快で阿呆に支持されやすいのである。
しかも阿呆と言えばテレビ漬けあるいはテレビ的ネット漬けであり、テレビや新聞や一部ネット世論はご存じの通り推進の広報部隊だ。これでは勝ち目はない。
地道な説得の旅で少しずつでも知識の広がりを企てる以外に手はないが、最早そんな悠長なことを言ってる場合ではない。
ではどうするか。
実は事故後の「煽り」や「危険」の連発、所謂パニックを煽るなということで攻撃された一連のヒステリックな対応こそが反核の逆転チャンスだったのである。
つまり危険を大袈裟に騒ぎ立て、パニックを煽り、逃げろ死ぬぞと大合唱することが、これまでやられっぱなしだった推進の戦術と全く同じ強弁と単純明快なメッセージによるニュートラル層の獲得に繋がる起死回生のB層作戦だったわけだ。
「大袈裟な危険」対「出鱈目な安全」の一騎打ち、完全に互角の勝負だ。しかし残念ながら推進が一枚上手だった。「パニックを煽るな」の一言が反核の戦術を萎えさせた。もともと阿呆のフリが得意でない真面目な反核の諸君は全く同じ意味である「安全を煽るな」と言い返すことが出来ぬまま慎重姿勢に突入してしまった。片方は相変わらず嘘と出鱈目に満ちた安全教の布教に努めながら、敵対勢力に対しては「いい加減なことを軽々しく言うな」と釘を刺し、B層作戦が自分たちが独占する戦術だと印象づけたのである。さすがだ。
こうして嘘と強弁に対抗できるはずのパニックと恐怖は押さえ込まれ、1ヶ月に渡るデータ隠蔽と安全デマの拡散に立ち向かう術もなく近隣住民は被曝し続けたし今後も被曝し続け、暗い未来を背負ってしまった。
この後予想される展開はそんな中でコツコツ頑張ってきたジャーナリストや真っ当な学者たちの危機だ。
これまでの経緯を踏まえると、彼らに対する攻撃がそろそろ始まる頃だ。仕事と無関係な誹謗中傷、プライベートや他の分野の仕事での失敗の拡散、カテゴライズによる全否定、偽情報を掴ませ恥をかかせる作戦、あるいは先人たちのように捏造で犯罪者に仕立て上げられたり仕事を奪われたり下手すればこっそり死なされたりするかもしれない。十分に気をつけてもらいたいところだ。
方や相変わらず放射能は安全、チェルノブイリは大した事故じゃないなどのデマ拡散は止めどもなく広がり続け、海外からの情報を遮断したり否定したり、レベルの低いヒューマニズムの横行で目を反らしたり、煙草や酒やパチンコや自販機やエロ本などといった共感を得やすそうな小さな敵を庶民に与えて巨悪に目が向かないようコントロールしたりといった阿呆阿呆作戦は庶民に浸透し、有事らしいファシズムが着々と完成されていくのである。
あな恐ろしや。
阿呆阿呆作戦については原発に限らずファシズムのおもしろい話なので昔「かっこわる症候群」や「ざまあみろ症候群」でも書いたけどまたそのうち書くつもり。
小さく雄叫びをあげつつ地味に子供クーデター進行中。
このような群発地震は過去に似たような記録があり、富士山の噴火と繋がっているというシナリオも十分予測できる。東海地震も射程に入った。
2度の原発爆発から1ヶ月、電力会社、政府、メディアの悪の枢軸トリオは安全デマの拡散とデータ隠蔽に明け暮れ、ここに来てようやくレベル7を認定し、場合によってはチェルノブイリを越える被害が出ることを公にした。今ごろ何言ってんだ。
呆れかえるその態度はまさに犯罪者、国際的な核テロリストと言っていい悪辣ぶりだ。あまりの悪者っぷりにめまいがする。
日本のシステムが旧ソ連と同様であることは石井鉱基の告発以降知れ渡ることになり、今回も自他共に認めるソ連以下レベルの対応をしてきたのであるが、海洋汚染からこっち、事態はもはやソ連レベルではなく常軌を逸した独裁国家並みの下劣さである。その非道っぷりに吐き気が止まらない。
さて反原発、反核の動きだが、都道府県の知事たちが国と電力会社に安全を求めるとか、市民がデモを行うとか、そういう普通のレベルに未だ留まっているのも驚愕と言える。
安全デマをまき散らす支配者層や一部の馬鹿が「パニックを防ごう」なんて言っていたが、今パニックじゃなければどういうときにパニックを起こすのだという話だ。この非常事態におとなしくお上の言うことを聞く飼い犬のような態度は一見冷静に見えるかもしれないが実はただの腑抜けである。
あるいは心理的パニックに陥っているがために安全神話にすがろうとする宗教にハマった浅ましい下人の姿なのかもしれない。
ま、そんなことはともかく、反原発の動きが未だ小さいまま広がりにかけるのが何故かということを分析したい。
反核の主張は実は30年前から何も変わっていない。30年前から事実が何一つ変わっていないためであり、主張や思想が一環しているためでもある。そして熱心に勉強した知識と正しいデータに基づく正論を展開し、ほとんどにおいて反論を封じ込めることが出来る説得力を持っている。話を広げすぎたり過度のナチュラル思想にハマるなどといった弱点もあるのだがここでは反核部分に限った部分だけに的を絞り枝葉は除外する。
つまり反核の主張は正統なのである。
これに対し推進の主張はやや異なる。彼らの思想的背景は判らないが、基本的に無知な人間を騙くらかすことが主な目的となる。そのため理屈は屁理屈にしかならず、議論しても浮ついた詭弁しか出てこないし、やることなすことすっとこどっこいで想像力の欠片もない。
両者の闘いは30年前から同じ事の繰り返しでだらだらと続いている。で、結果的には勝者は推進であり、反核は完敗しているのだ。
何故か。
正論対正論を封じるという構図が全てを物語っている。反核の主張は、その主張が正しいが故に簡単に粉砕されるのである。
細かなデータを元に正統な理屈を苦労して並べ立てたあげく、冷笑と共に大嘘と全否定という二つの極端な強弁の罠に引っ掛かり砕け散るということだ。
正しいことは大きな嘘と全否定には到底かなわないのである。例えば戦時中、詳細なデータを元に日本が敗戦するという声は粉砕され「神風が吹くから」という大嘘の前に完敗した。あるいはもっと身近だと例えば国会中継で共産党議員の質問を見れば誰でもわかるだろう。スパイすれすれの人脈を駆使して集めた詳細データを元に国会で鋭く質問する共産党議員、だがそれに対する答弁はのらりくらりと無関係な話で逃げ切る。しつこく迫るとニタニタ笑って他所を向き「ま、共産党が言ってることだから」と小馬鹿にして終わる。個々の質問にまともに向き合えば必ず論破されるので、大きく冷笑して全否定するという戦略を取るのであるがこれがもう効果絶大。
例えば頭の切れる人に1時間くらい何か賢いことを喋ってもらい、その後でアホのふりをしながら「でもお前の母ちゃんでべそだよな」で全て終わるのと同じ理屈だ。
反核の連中は30年間変わらぬ真面目な態度のまま突き進み主張に変化はなく、まんまとこの戦略に嵌ってしまって常に完敗するというそういうことの繰り返しをこの非常事態にまだやっているということだ。
いやこれは反核の連中を貶してるんではなくて、そういう攻撃にさらされていることを自覚したほうがいいという話だ。
推進の攻撃は反核に対しては冷笑と全否定、知識のないニュートラル層に対しては大嘘と宗教で責める。
大嘘と宗教については連日の安全デマとそれを鵜呑みにする信者たちを観察していれば誰にもわかるので詳細は割愛するが、反核も負けじとニュートラル層の取り込みに躍起になる。
ここでも注意が必要だ。正しいデータと正論はもちろん大事だが、それだけではニュートラル層は動かない。そもそもニュートラル層は基本阿呆なのであまり理詰めで迫ると「何この人キモい」と思われてお仕舞いである。この辺はかつての小泉クレジット選挙の時のことを思い出さねばなるまい。反核の正論より推進の大嘘のほうが耳障りが良くて単純明快で阿呆に支持されやすいのである。
しかも阿呆と言えばテレビ漬けあるいはテレビ的ネット漬けであり、テレビや新聞や一部ネット世論はご存じの通り推進の広報部隊だ。これでは勝ち目はない。
地道な説得の旅で少しずつでも知識の広がりを企てる以外に手はないが、最早そんな悠長なことを言ってる場合ではない。
ではどうするか。
実は事故後の「煽り」や「危険」の連発、所謂パニックを煽るなということで攻撃された一連のヒステリックな対応こそが反核の逆転チャンスだったのである。
つまり危険を大袈裟に騒ぎ立て、パニックを煽り、逃げろ死ぬぞと大合唱することが、これまでやられっぱなしだった推進の戦術と全く同じ強弁と単純明快なメッセージによるニュートラル層の獲得に繋がる起死回生のB層作戦だったわけだ。
「大袈裟な危険」対「出鱈目な安全」の一騎打ち、完全に互角の勝負だ。しかし残念ながら推進が一枚上手だった。「パニックを煽るな」の一言が反核の戦術を萎えさせた。もともと阿呆のフリが得意でない真面目な反核の諸君は全く同じ意味である「安全を煽るな」と言い返すことが出来ぬまま慎重姿勢に突入してしまった。片方は相変わらず嘘と出鱈目に満ちた安全教の布教に努めながら、敵対勢力に対しては「いい加減なことを軽々しく言うな」と釘を刺し、B層作戦が自分たちが独占する戦術だと印象づけたのである。さすがだ。
こうして嘘と強弁に対抗できるはずのパニックと恐怖は押さえ込まれ、1ヶ月に渡るデータ隠蔽と安全デマの拡散に立ち向かう術もなく近隣住民は被曝し続けたし今後も被曝し続け、暗い未来を背負ってしまった。
この後予想される展開はそんな中でコツコツ頑張ってきたジャーナリストや真っ当な学者たちの危機だ。
これまでの経緯を踏まえると、彼らに対する攻撃がそろそろ始まる頃だ。仕事と無関係な誹謗中傷、プライベートや他の分野の仕事での失敗の拡散、カテゴライズによる全否定、偽情報を掴ませ恥をかかせる作戦、あるいは先人たちのように捏造で犯罪者に仕立て上げられたり仕事を奪われたり下手すればこっそり死なされたりするかもしれない。十分に気をつけてもらいたいところだ。
方や相変わらず放射能は安全、チェルノブイリは大した事故じゃないなどのデマ拡散は止めどもなく広がり続け、海外からの情報を遮断したり否定したり、レベルの低いヒューマニズムの横行で目を反らしたり、煙草や酒やパチンコや自販機やエロ本などといった共感を得やすそうな小さな敵を庶民に与えて巨悪に目が向かないようコントロールしたりといった阿呆阿呆作戦は庶民に浸透し、有事らしいファシズムが着々と完成されていくのである。
あな恐ろしや。
阿呆阿呆作戦については原発に限らずファシズムのおもしろい話なので昔「かっこわる症候群」や「ざまあみろ症候群」でも書いたけどまたそのうち書くつもり。
小さく雄叫びをあげつつ地味に子供クーデター進行中。
2011年03月20日
デマ
風評の原因は一にも二にも情報が足りないことだ。情報不足は憶測を生み、風評を広げ、デマを誘発させる。だから現時点でデマが横行するのは仕方がない。これを防ぐには東電なり政府なり研究機関なりが正しい情報を出すしかない。
しかしなかなかそれが出てこないのでデマが生まれる。
デマの首を取り非国民非国民と騒ぐ首狩り族のような全体主義がネットに蔓延してきており、気持ち悪いことになっている。
耳障りのよい安心安全デマは無条件に信じ込み、危険を煽るデマはよってたかって糾弾する。それはまるでゾンビ映画のクライマックスのようなおぞましい姿である。
デマにもいろいろあって、東電や関連機関が発するデマはこれはタチが悪い。合い言葉は「安全安心レントゲンCT飛行機」「ただちに危険ではない」だ。まあこういう連中が何十年も繰り返してきたいつもの戯言を恥ずかしげもなくまだやっているのだが、これでお墨付きを得たように「なんだ安心じゃん。不安を煽ってる奴は非国民だな」と短絡的に信じ込むのはパニック症候群の一種ではないかと思える。人が宗教にハマるときと同じで、特殊な状況に対応しきれないための心理的防衛が働いているからではないかと。その心理状況を作り出しているひとつに計画停電なるものがあるのは間違いなさそうだ。不安と重圧感は並大抵ではないだろう。直接の被災者でないならなおさら別の複合観念も生じる。自分もそういう環境にいれば正しい判断など消し飛んでしまう弱さを持っていると自信を持って言えるのである。
逆に危険を煽りまくる有害なデマも多く発生している。夕刊紙や週刊誌のタイトルでお馴染みの、大袈裟で紛らわしいデマだ。放射能の恐怖を事実以上に誇張したり、理屈にあっていなくても核爆発などという言葉を乱発して大騒ぎする愉快犯的な方向だ。
これに騙される人は普段からテレビや週刊誌に騙されるタイプの人で、実は噂にはなっているが実際にそういう人を見かけることはない。多分そういうのに騙される人たちと自分の生活圏が違いすぎていて接する機会がないからだと思う。聞くところによると現実には沢山いるそうである。騙されてお気の毒、とは思うが、今までもずっとそうだったろうから今更だな。
この両極端のデマを挟んで、Twitter上などでは有志が発するデマというか間違った情報というか、そういうのが大量に発生している。
安全デマの系統では以下のような話。
「広島・長崎も不毛の土地になると言われていたがすぐに復興した。だから今回も同じだ。大したことない」
「大した量は漏れていない。自然界と同じくらいだ」
「レントゲンCT飛行機」
「放射能より煙草のほうが危険」
逆のデマの系統では以下のような話かな。
「東京はすでに危険だ。全員即刻死ぬ」
「この地震はユダヤ人による地震兵器の発動だ」
「停電は海ほたるにあるレーザー起爆装置を作動させるためだ」
それ以外に昔ながらの差別を含んだデマも横行しているらしい。直接見聞きしたことがないが、現地ではこうだ、こんなことがあった、こんな人がこんなことを言った、などのデマは相変わらず発生しているらしい。
まあお盛んなことであるが、多くはは知識の欠落によるものにすぎない。
しかし夕刊紙やテレビ雑誌にこれまで散々溺れている現代人なら、今更この手の有志によるデマに踊らされることもあるまい。こういうことを言っている多くがただの匿名のネット番長たちだ。
見ていて気分は悪いが無視するのが得策なのである。
ただ状況が状況なので、誰もが上手く無視出来ず、デマを元にしたネット世論というか空気というか、そういう物が全体主義的に広がってきているのも確かだ。
具合の悪い発言には「非国民」と言わんばかりの集団ヒステリー状態が垣間見れる。
これが実に不気味なのである。
正直言って、より悪質なのは安全デマだ。なぜかというと、デマがデマであったときのダメージが比較にならないほど大きいからだ。
アスベストやミドリ十字、古くはチッソやヒ素ミルク、さらには大本営発表の戦争に勝ってるデマのことを思い出してもいい。「安全安心問題ない」をアホ面で信じた結果どのようなことになったか誰もが知っていることだ。
知識の欠落以外に、思想的なバイアスがかかるのも大きい。例えば私はもともと原発には反対で電力会社も政府も基本的に信用していない。しかも民主主義者である。基本偏っているのだ。
逆の人、つまり原発推進で電力会社や政府を信頼していて資本主義的原理主義者の人種というのも多く存在する。というかこっちのほうが多いかも。
同じ事を同じように発言しても、その文脈は大きく異なり、受け手に全然違うイメージを植え付ける。
異なるイメージを受けた側が、感化されてあやふやな二次三次情報をさらに拡散させてしまうということも多くおこるだろう。
そういえば最近話題のふたつの動画があって面白い。
ひとつは広瀬隆のテレビ出演、もうひとつは大前研一の講演のビデオだ。
実はこの二つを見比べると、大事な技術的な点において同じようなことを言っているのが判る。
で、全然違うことを言っている箇所もある。目立つのはそっちの方向かもしれない。方やちょっとオカルト入ってるんじゃないと揶揄されそうな、方や庶民殺しの新自由主義者めと揶揄されそうな面をそれぞれ持つ。
だが些細な点だ。
その些細な点を大きく膨らませ、大事な点を聞き逃すとこれはタチが悪い。
デマの広がりも、そういう些細な点が出発点になるのかもしれない。
追記。
ここまで来て安全デマの拡散がTwitter上などで見られ、ブラック・ジョークが現実になりつつある。
即ち、危険は大したことない、放射能は煙草や交通事故と同じ、汚染の基準値を引き上げればOK、テレビを信じる、東電を信じる、海外メディアは全て大嘘つきだから日本の報道だけ信じる、危険性を言うやつは全て非国民、誰でも癌になるから癌になるからと言ってどうって事ない、などという悪い冗談の蔓延である。
大本営報道と戦時中の庶民の狂乱を生で目撃する羽目になるとはさすがに思わなかったのでこれには驚いた。事実を示されたら「風評」「大袈裟」と拒否するのである。気に入らない情報を遮断し、耳障りのいい言葉だけを信じる様は哀れですらある。
恐怖と不安が判断力を失わせ、ファシズムの芽を育てるその課程を目の当たりにしていることを感じ、薄ら寒い。
しかしなかなかそれが出てこないのでデマが生まれる。
デマの首を取り非国民非国民と騒ぐ首狩り族のような全体主義がネットに蔓延してきており、気持ち悪いことになっている。
耳障りのよい安心安全デマは無条件に信じ込み、危険を煽るデマはよってたかって糾弾する。それはまるでゾンビ映画のクライマックスのようなおぞましい姿である。
デマにもいろいろあって、東電や関連機関が発するデマはこれはタチが悪い。合い言葉は「安全安心レントゲンCT飛行機」「ただちに危険ではない」だ。まあこういう連中が何十年も繰り返してきたいつもの戯言を恥ずかしげもなくまだやっているのだが、これでお墨付きを得たように「なんだ安心じゃん。不安を煽ってる奴は非国民だな」と短絡的に信じ込むのはパニック症候群の一種ではないかと思える。人が宗教にハマるときと同じで、特殊な状況に対応しきれないための心理的防衛が働いているからではないかと。その心理状況を作り出しているひとつに計画停電なるものがあるのは間違いなさそうだ。不安と重圧感は並大抵ではないだろう。直接の被災者でないならなおさら別の複合観念も生じる。自分もそういう環境にいれば正しい判断など消し飛んでしまう弱さを持っていると自信を持って言えるのである。
逆に危険を煽りまくる有害なデマも多く発生している。夕刊紙や週刊誌のタイトルでお馴染みの、大袈裟で紛らわしいデマだ。放射能の恐怖を事実以上に誇張したり、理屈にあっていなくても核爆発などという言葉を乱発して大騒ぎする愉快犯的な方向だ。
これに騙される人は普段からテレビや週刊誌に騙されるタイプの人で、実は噂にはなっているが実際にそういう人を見かけることはない。多分そういうのに騙される人たちと自分の生活圏が違いすぎていて接する機会がないからだと思う。聞くところによると現実には沢山いるそうである。騙されてお気の毒、とは思うが、今までもずっとそうだったろうから今更だな。
この両極端のデマを挟んで、Twitter上などでは有志が発するデマというか間違った情報というか、そういうのが大量に発生している。
安全デマの系統では以下のような話。
「広島・長崎も不毛の土地になると言われていたがすぐに復興した。だから今回も同じだ。大したことない」
「大した量は漏れていない。自然界と同じくらいだ」
「レントゲンCT飛行機」
「放射能より煙草のほうが危険」
逆のデマの系統では以下のような話かな。
「東京はすでに危険だ。全員即刻死ぬ」
「この地震はユダヤ人による地震兵器の発動だ」
「停電は海ほたるにあるレーザー起爆装置を作動させるためだ」
それ以外に昔ながらの差別を含んだデマも横行しているらしい。直接見聞きしたことがないが、現地ではこうだ、こんなことがあった、こんな人がこんなことを言った、などのデマは相変わらず発生しているらしい。
まあお盛んなことであるが、多くはは知識の欠落によるものにすぎない。
しかし夕刊紙やテレビ雑誌にこれまで散々溺れている現代人なら、今更この手の有志によるデマに踊らされることもあるまい。こういうことを言っている多くがただの匿名のネット番長たちだ。
見ていて気分は悪いが無視するのが得策なのである。
ただ状況が状況なので、誰もが上手く無視出来ず、デマを元にしたネット世論というか空気というか、そういう物が全体主義的に広がってきているのも確かだ。
具合の悪い発言には「非国民」と言わんばかりの集団ヒステリー状態が垣間見れる。
これが実に不気味なのである。
正直言って、より悪質なのは安全デマだ。なぜかというと、デマがデマであったときのダメージが比較にならないほど大きいからだ。
アスベストやミドリ十字、古くはチッソやヒ素ミルク、さらには大本営発表の戦争に勝ってるデマのことを思い出してもいい。「安全安心問題ない」をアホ面で信じた結果どのようなことになったか誰もが知っていることだ。
知識の欠落以外に、思想的なバイアスがかかるのも大きい。例えば私はもともと原発には反対で電力会社も政府も基本的に信用していない。しかも民主主義者である。基本偏っているのだ。
逆の人、つまり原発推進で電力会社や政府を信頼していて資本主義的原理主義者の人種というのも多く存在する。というかこっちのほうが多いかも。
同じ事を同じように発言しても、その文脈は大きく異なり、受け手に全然違うイメージを植え付ける。
異なるイメージを受けた側が、感化されてあやふやな二次三次情報をさらに拡散させてしまうということも多くおこるだろう。
そういえば最近話題のふたつの動画があって面白い。
ひとつは広瀬隆のテレビ出演、もうひとつは大前研一の講演のビデオだ。
実はこの二つを見比べると、大事な技術的な点において同じようなことを言っているのが判る。
で、全然違うことを言っている箇所もある。目立つのはそっちの方向かもしれない。方やちょっとオカルト入ってるんじゃないと揶揄されそうな、方や庶民殺しの新自由主義者めと揶揄されそうな面をそれぞれ持つ。
だが些細な点だ。
その些細な点を大きく膨らませ、大事な点を聞き逃すとこれはタチが悪い。
デマの広がりも、そういう些細な点が出発点になるのかもしれない。
追記。
ここまで来て安全デマの拡散がTwitter上などで見られ、ブラック・ジョークが現実になりつつある。
即ち、危険は大したことない、放射能は煙草や交通事故と同じ、汚染の基準値を引き上げればOK、テレビを信じる、東電を信じる、海外メディアは全て大嘘つきだから日本の報道だけ信じる、危険性を言うやつは全て非国民、誰でも癌になるから癌になるからと言ってどうって事ない、などという悪い冗談の蔓延である。
大本営報道と戦時中の庶民の狂乱を生で目撃する羽目になるとはさすがに思わなかったのでこれには驚いた。事実を示されたら「風評」「大袈裟」と拒否するのである。気に入らない情報を遮断し、耳障りのいい言葉だけを信じる様は哀れですらある。
恐怖と不安が判断力を失わせ、ファシズムの芽を育てるその課程を目の当たりにしていることを感じ、薄ら寒い。
2011年03月17日
情報を得ること
大災害を知ったのは5時間後だった。こういうとき、社会から孤立して一人で仕事をしていると世間の情報が全然ないので気づくわけがない。仕事を一区切りつけてTwitterを覗くとすでに大騒ぎ、多くの情報を一気に得た。
以前ならこんなときは即テレビだ。しかしうちには映るテレビはない。ラジオは車にしかついていない。でもインターネットが繋がっているので何とか進行中の災害について知ることが出来た。特にTwitterと、それから最近出来たUstreamの威力、これはすごかった。UstreamにはNHKのテレビ放送がそのまま流されていたので、これはテレビがあるのと同じ状態。あらためて、テレビというものがどういう局面で必要なのかよくわかる。普段はいらないがこういうときは必須なのである。ただし速報以外、そこから得られる情報がほんの一部であること、歪曲されたり隠蔽された結果であることなどに留意せねばならない。
ネット上では有意義な情報のほか、邪魔なノイズも散乱していて始末が悪いことも多い。ある意味被災していない多くの人間もパニックに陥っている。日本史が切り替わるほどの大災害に直面して誰もが混乱しているのは間違いない。
被災地がどのようなことになっているのか誰にもわからない。不安や楽観が入り交じり、デマや偽情報、善意からくる悪意、ファシズムの芽も目立つ。
今回完全に無事な関西圏としては、被災民の受け入れを早急に準備すべきであると思っていたら、これが早急に準備している模様。大阪、京都、神戸、すべての自治体が被災民の受け入れ準備を進めていることを発表している。これはよくやったと思う。
交通手段まで含めた援助ができればと願う。
速報が一段落すると、徐々にテレビの情報が害悪になってくるのでそろそろ必要なくなってきている。
死者の数を数えたり、いち早く災害を振り返ったり、被害者の傷をほじくり出したり、援助の邪魔をしたり、原発被害を過小評価したり電力会社や政府の嘘を検証せずに垂れ流したりする害悪だ。
速報性や広く広報することに関してテレビは目的を果たすが、ジャーナリズムとしてはかなり劣等なのでここはきちんと区別をしたいところ。
日赤からもすでに現地に人が出向いている。話を聞くとそれはそれはいろいろ大変そうで、何人くらいの人が何人くらいの人の面倒を見るとか、頭が下がる思いだ。身近な例ですらそれなのだから、現地の状況は想像するだけで・・いや、実際のところ想像が追いつかない。
実は天皇さんの言葉に大いに感心した。わしは今の天皇が好きだ。前の天皇の時は闇雲に攻撃していたが、崩御の時に力が抜けた。力が抜けたことを自覚して「なんだ、おれ、天皇好きだったんじゃねえか」と気づいたのである。まあちょっと意味が違うが。
天皇陛下は原発事故にも「強く案じ」と触れた。この人はよくわかっている。短い言葉の中に強いメッセージを込めていることを聞き逃してはならない。「事態のさらなる悪化が回避されることを切に願っている」ことを、もし愛国者なら心して聞け。お前らだ>電力会社、保安員、御用学者、御用マスコミ (こいつらが愛国者のわけがないが)
それから被災者を案じ、救援する人々をねぎらい、次のような言葉。「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」
相携えいたわり合ってとはよくぞ素晴らしい言葉を選んでくれたものだ。誰かもツイートしてたけど、決して「国民一丸となって祖国のために頑張れ」などとは言わないのだ。ここ非常に大事。込められた意図と言葉の選び方に心が動いた。
以前ならこんなときは即テレビだ。しかしうちには映るテレビはない。ラジオは車にしかついていない。でもインターネットが繋がっているので何とか進行中の災害について知ることが出来た。特にTwitterと、それから最近出来たUstreamの威力、これはすごかった。UstreamにはNHKのテレビ放送がそのまま流されていたので、これはテレビがあるのと同じ状態。あらためて、テレビというものがどういう局面で必要なのかよくわかる。普段はいらないがこういうときは必須なのである。ただし速報以外、そこから得られる情報がほんの一部であること、歪曲されたり隠蔽された結果であることなどに留意せねばならない。
ネット上では有意義な情報のほか、邪魔なノイズも散乱していて始末が悪いことも多い。ある意味被災していない多くの人間もパニックに陥っている。日本史が切り替わるほどの大災害に直面して誰もが混乱しているのは間違いない。
被災地がどのようなことになっているのか誰にもわからない。不安や楽観が入り交じり、デマや偽情報、善意からくる悪意、ファシズムの芽も目立つ。
今回完全に無事な関西圏としては、被災民の受け入れを早急に準備すべきであると思っていたら、これが早急に準備している模様。大阪、京都、神戸、すべての自治体が被災民の受け入れ準備を進めていることを発表している。これはよくやったと思う。
交通手段まで含めた援助ができればと願う。
速報が一段落すると、徐々にテレビの情報が害悪になってくるのでそろそろ必要なくなってきている。
死者の数を数えたり、いち早く災害を振り返ったり、被害者の傷をほじくり出したり、援助の邪魔をしたり、原発被害を過小評価したり電力会社や政府の嘘を検証せずに垂れ流したりする害悪だ。
速報性や広く広報することに関してテレビは目的を果たすが、ジャーナリズムとしてはかなり劣等なのでここはきちんと区別をしたいところ。
日赤からもすでに現地に人が出向いている。話を聞くとそれはそれはいろいろ大変そうで、何人くらいの人が何人くらいの人の面倒を見るとか、頭が下がる思いだ。身近な例ですらそれなのだから、現地の状況は想像するだけで・・いや、実際のところ想像が追いつかない。
実は天皇さんの言葉に大いに感心した。わしは今の天皇が好きだ。前の天皇の時は闇雲に攻撃していたが、崩御の時に力が抜けた。力が抜けたことを自覚して「なんだ、おれ、天皇好きだったんじゃねえか」と気づいたのである。まあちょっと意味が違うが。
天皇陛下は原発事故にも「強く案じ」と触れた。この人はよくわかっている。短い言葉の中に強いメッセージを込めていることを聞き逃してはならない。「事態のさらなる悪化が回避されることを切に願っている」ことを、もし愛国者なら心して聞け。お前らだ>電力会社、保安員、御用学者、御用マスコミ (こいつらが愛国者のわけがないが)
それから被災者を案じ、救援する人々をねぎらい、次のような言葉。「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」
相携えいたわり合ってとはよくぞ素晴らしい言葉を選んでくれたものだ。誰かもツイートしてたけど、決して「国民一丸となって祖国のために頑張れ」などとは言わないのだ。ここ非常に大事。込められた意図と言葉の選び方に心が動いた。
2011年01月04日
DVDで観ること
映画は映画館で観るのが一番に決まってる。でもなかなかそうはいかん。
まず第一に観ようにも近場で公開していない。公開するのは旬が過ぎて最初の公開から随分経ってからだ。
次に高い。遅れてきた公開、当然名画座・二番館・三番館扱いの筈なのに割引きもなくロードショー値段を平気で付けている。謙虚さというものがない。
次に環境が悪い。煙草を吸う場所もないような劣悪な環境で居心地悪さを我慢して出かけて観ねばならない。全く馬鹿げている。
さてそういうわけで遅れてきた公開の頃にはDVD発売のアナウンスがちらほらされたりしているのである。
何だそれならもうちょっと待ってDVDで観るか、と、こうなるのは当然だ。
家で観る映画は、地元のミニシアターより少しスクリーンが小さく、画質が悪く、音量をあまり大きく出来ないという致命的欠陥はあるものの、タバコは吸えるし好きな時間に観れるし椅子は快適だし見終わってすぐ飲めるというメリットもある。
そんなわけで「エンター・ザ・ボイド」や「ぼくのエリ」はまもなくDVD発売で、ついこないだ見損ねたなーと思ってた矢先のこのタイムラグの少なさこそが大いなるポイントでありますな。
まず第一に観ようにも近場で公開していない。公開するのは旬が過ぎて最初の公開から随分経ってからだ。
次に高い。遅れてきた公開、当然名画座・二番館・三番館扱いの筈なのに割引きもなくロードショー値段を平気で付けている。謙虚さというものがない。
次に環境が悪い。煙草を吸う場所もないような劣悪な環境で居心地悪さを我慢して出かけて観ねばならない。全く馬鹿げている。
さてそういうわけで遅れてきた公開の頃にはDVD発売のアナウンスがちらほらされたりしているのである。
何だそれならもうちょっと待ってDVDで観るか、と、こうなるのは当然だ。
家で観る映画は、地元のミニシアターより少しスクリーンが小さく、画質が悪く、音量をあまり大きく出来ないという致命的欠陥はあるものの、タバコは吸えるし好きな時間に観れるし椅子は快適だし見終わってすぐ飲めるというメリットもある。
そんなわけで「エンター・ザ・ボイド」や「ぼくのエリ」はまもなくDVD発売で、ついこないだ見損ねたなーと思ってた矢先のこのタイムラグの少なさこそが大いなるポイントでありますな。
年賀状
職業柄年賀状を出している。悪政による不況はもう20年も続き、日本にとってそれが普通になってしまった。
有権者と政権与党の馬鹿党員のせいで僅かな期待はことごとく裏切られ考えられる最悪の選択ばかりをしてきて死人続出。
年々、不達で返される年賀状を見る度に暗い気分になる。
今年はさらに大きなダメージもあった。なんということだ。
有権者と政権与党の馬鹿党員のせいで僅かな期待はことごとく裏切られ考えられる最悪の選択ばかりをしてきて死人続出。
年々、不達で返される年賀状を見る度に暗い気分になる。
今年はさらに大きなダメージもあった。なんということだ。